創作「爪面のクレーター」

アロミの爪は月面のクレータのようにデコボコとしていて、特段ネイルもしていなかったので光が当たるたびに注視して見つめればその様子が微かにわかるのだが、それは指先で触ってわかるほどものではなかったので、デートしていたタケローという男が「アロミちゃんの爪、月面のクレーターみたいだね」と言われたときに、アロミは恥ずかしくなって、少し腹が立って、最後に心惹かれた。

アロミはそんな複雑な感情を適切に表現する言葉や表情を持ち合わせていなかったため、彼女の伝達神経は渋滞を起こして、本来はつながらないはずの道路がつながったり、伝言ゲームでどんどん真実が書き換わるように間違った情報が伝わってしまった結果、映画館の座席に座ったばかりなのに関わらず、思わず立ってしまった。

「ちょっとお手洗い行ってくるね」

「いいよ」タケローは言った。

別に許可を乞うたわけじゃないのに、承諾だけされたのでアロミは気分がよくなかった。あと、さっきタケローに「タケローはトイレ行くけどアロミも行けば?」と言われたときに、駅で行ったから別にいいと答えた手前、今さら映画館の座席に座った後で衝動的にトイレに行くのは恥ずかしいし、なんならもう予告編が始まっており、映画館の照明は暗くなり始めており、まだ5分程度の予告編が続くことが予想されるものの、真ん中の座席から少なくない人を押しのけてトイレに行くことはやはり落ち込むものだった。

少し明るい通路に出てアロミは立ち止まり、天井を見つめ、3秒待ってトイレのマークを探した。トイレはすぐ見つかったのだが、他のスクリーンで上映が終わった直後だからか、女性トイレには5名ほどの人が並んでいた。外に5人なら中に2人は待っていて、入り口の大きさから、個室の数は3つだろうから、2回転しても順番が回ってこないので、5分の予告が終わる前に座席に戻れないことを確信した。

このまま荷物を置いて外に出てしまおうかと思ったりもしたが、別にトイレに行きたいわけでもないので座席に黙って帰ればよかった。トイレに行ったかどうか説明しなければ嘘をついたことにもならない。しかしアロミは後ろに並んでいる人からなんとなく威圧感、蛇の目のような威圧感を感じて動けずにいた。

動かない列にやきもきして目線を左にずらすと、宣伝用のパンフレットが並ぶラックに交じって、腰ほどの高さの珍妙な台があった。いや、変なのは台そのものではなく、台に載っている爪切りだった。

台に置いてある、というよりは載っているという言葉が似合う大きさの、つまり見たことないほど大きい爪切りだった。その手前には、手書きのポップに可愛らしい文字で”ご自由にお使いください💛”と記されており、その横に写実的なビル・マーレイの似顔絵が書いてあった。

あまりにも何かの罠、トラップのような大きさの爪切りだったが、アロミの神経は無意識化でひそひそ話をし始め、アロミにその爪切りを取らせた。そう奴らの狙いはあのクレーターのような爪を切って、平らにすることだった。

クレーターのような爪は切っても平らにできない。でもアロミの体たちにはそんなことわからないので、彼女に爪切りを取らせた。アロミは巨大爪切りを手にして爪を切ろうとするも、指全体を切ってしまいそうで、怖くて気が進まなかった。

「便利ですね」

後ろから声を掛けられて驚いて振り向いたアロミは、そこに小学生くらいの男子の存在を認めた。その男子の後ろには別の女性が並んでいるので、この男子が女子トイレに並んでいることは間違いないのだが、アロミの頭に立ち上がる様々な疑問を理由に黙りこくるのも男子に悪いので、

「私の爪、月の表面みたいにデコボコしているから切りたいんだけど、この爪切りだと指ごといっちゃいそうでさ」

「小指ならまだしも、小指以外なら洒落になりませんもんね」

「そうだね」

「指がなくなって困るのは、あなただけじゃなくて、あなたの他の4本の指もなんですよ。5本で一緒なので、一人いなくなって影響を受けないほうが変じゃないですか?」

「あなたには指がないの?」

「うん、ないよ」男子は中指が不在の左手を掲げた。

「どっかいっちゃった」

「一緒に探してあげようか」

「すみません、トイレ」

後ろのおばさんがご立腹なご様子で、トイレ空いてるからお前が入れよ、と言っている。でもいまは男子の中指のが大事なので、腰を屈めながらもう一度振り返ると、そこにはポップコーンのゴミが散乱しているだけだった。

散乱したごみを見つけて驚いたように映画館の清掃スタッフが飛んでくる。見つかってはいけないものがそこにあったようにほうきと塵取りで手早く片付ける。

「あ、あの」

「どうかしましたか」

「その中に」

「落とし物ですか」

「あ、ちょっと見せてもらっても」

「何をお探しですか?」

「あ、いや大丈夫です…」

スタッフは私の返事を聞き終わる前にバックヤードに戻ってしまった。

気が付けばトイレを待つ列はなく、すべての映画が始まったのか通路に人の気配はなく、私はタケローの待つ座席へと戻った。

今すぐタケローに話したい。あなたが映画を見始める瞬間に私に起きたいくつもの不思議な話を。そしてそれらすべてがくだらない生活の塵みたいな、一時的な不調和なんだって蹴っ飛ばして抱きしめてほしい。

タケローのことを思うと、私のストレスは軽減され、へこんでいたクレータは隆起し、今になって思えば、それはまさしく新しい天地創造にふさわしい地殻変動だった。これから始まる私の新世界、不思議な男子がその1ページを大胆にも刻んだのでした。